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その検診、いくつまで受けますか? [雑記]

(仕事で関係しているある市の医師会報に載せた文章です。若手のDrからは面白いと言ってもらいました。)

その検診、いくつまで受けますか?
 ある日の外来での出来事。今年87歳になるという高齢の女性が近くのクリニックの先生からの紹介状を持って当院を受診してきた。そのクリニックの先生は大変熱心なよい先生で、市民検診も毎年そこで受けているという。毎年便潜血検査を実施しているが、今年初めて2回の検査のうち1回が陽性になってしまったとのこと。自覚症状は特にない。見た目には血便もなければ、とくに便通がかわったこともないという。数年前に軽い脳梗塞を患いクリニックからは抗血小板薬を処方され内服している。帝王切開の既往もあり、一緒にきた娘さんによれば軽い認知症もあるようだ。
「検査で引っかかっちゃったので、クリニックの先生に言われて検査のためここの病院を受診しました」と言ってはくれるが、ついてきた娘さんはどこかから大腸内視鏡検査のつらさ、大変さを聞き及んできたのかすこし不安そうではある。
こういう方にはどうすればいいのだろうといつも悩んでしまう。司馬遼太郎『項羽と劉邦』でしられる楚の項羽の詩の一節「虞や虞や 若(なんじ)を奈何(いかん)せん」の心境である。87歳の老女を虞美人にたとえるのもどうかとも思うが。

 さて、これには実はある回答がすでに出されている。宮城県で診断された大腸の悪性腫瘍11415例を対象に、「性年齢階級別にスクリーニング発見癌と外来発見癌の進行度、ならびに予後を調査し、その成績から検診により期待される救命年数を算出した」研究である(「大腸がん検診において重点的に対処すべき年齢層 生存率と期待生存年数からの考察」 島田剛延(宮城県対がん協会がん検診センター)ら、日本消化器がん検診学会雑誌(1880-7666)52巻5号 Page556-567(2014.09))。
この論文の抄録から抜粋して引用させていただくと、「男性の75〜84歳、女性の80〜84歳については良好な健康状態であるならば受診を勧める意義が十分あると考えられたが、85歳以上については検診による予後の改善はほとんど見込めず、この年齢層では積極的な検診への勧奨は不要と考えられた」とのことである。
つまり、85歳以上では(良好な健康状態でない75歳以上の男性・80歳以上の女性も)そもそも便潜血検査による大腸がん検診を行うメリットはなかったのだ。
こういう話を聞くと内視鏡をやっている先生のなかには、「検査で内視鏡治療が可能な早期がん(粘膜内癌)がみつかることもあるのではないか」とおもう方もおられるだろう。確かにそういう症例もあるし実際治療に回る方もいる。ただし、その早期がんは85歳以上ではもともと生命予後には関係しない可能性が高いのだ。
しかしこの手の話はなかなか一般の方には理解されないのが現状だろう。世の中の人は、たとえそれがどんなに微小なものでもポリープはすべてとってもらいたいとおもっているのだ。まして早期がんの疑いがあるとでもいわれたら何をか言わんやである。最近も化学療法で小康を得ている肺小細胞癌のかたの大腸ポリープ(腺腫)を内視鏡で治療した。検査でポリープが見つかった時点で、治療をしても生命予後はかわらないだろうというようなことを言葉を撰んでお話したのだが、「心配な芽はすべて潰しておきたいんです」という家族の言葉に結局は従わざるを得なかったのだ。
進行癌の場合はどうか?癌による症状が出ていない段階で検査で進行癌を発見しても手術や化学療法に果たして耐えられるのだろうか。85歳以上では個人差は大きいとはいえ、ADLの大幅な低下なしに手術できる例は少ないだろう。結局、閉塞(便通異常)や貧血などの癌による症状が出た時点で、大腸ステントや輸血などで対処するのが現実的な対応だろう。当院では2013年末に大腸ステントを導入以来現在まで86例に実施している。大腸閉塞で発症し緊急避難的にステントを挿入して待機的に手術を実施する場合や、そもそも手術の適応がない症例に緩和目的に挿入する場合などだが、85歳以上の高齢者の場合はほぼ後者の適応になることが多い。ステントの閉塞を来し再度のステント挿入が必要になることも時にあるが、ステント挿入後は最終的な段階まで閉塞症状の緩和が得られることが多く、進行大腸癌の緩和医療にステント治療が果たす役割は大きいと考えている。

 上記の論文の結論からは、超高齢者などそもそも治療の対象にならない(治療しても予後がかわらない)集団には検査を行うべきではないし、検査につながるような検診自体も不要であると言えるだろう。いわれてみれば当たり前の話だが「早期発見・早期治療」の考えだけに凝り固まっているとこの当たり前が見えなくなることがある。
「早期発見・早期治療」教の弊害をもう一つ上げておこう。人間ドックや自費の健診で行われることがある腫瘍マーカーの測定である。保険診療ではさすがに症状のない方に腫瘍マーカーだけを測定することはないが、人間ドックや健診では無症状の受診者に測定されることがある。現行の腫瘍マーカーで消化器癌の早期発見に役立つものはないし、死亡率低下に寄与するものもないとされているにもかかわらずである。またこの腫瘍マーカー、5%くらいの確率で偽陽性になる。数年前に当院でも職場の健診でCA19-9が3桁だった30代の男性を経験した。いろいろ調べたがやはり偽陽性だった。ご本人には全く症状はないが、数値をみて不安感だけが増大。ご希望もあり医大を紹介受診していただいたがやはりおなじ結論。その後も職場では毎年腫瘍マーカーつきの健診を受けさせられているようで、そのたびに上司からは「原因を徹底的にしらべてこい」といわれるらしい。まったく罪作りな健診ではある。

 さて冒頭の症例に戻ろう(ちなみに症例はよくある例をミックスした架空の症例です。念の為)。
「内視鏡検査自体にリスクはあるし、検査して進行癌があっても手術は到底むりだし、寿命だってそうかわらないよ」などという身も蓋もないことはもちろん口にしないで、脳梗塞や帝王切開の既往があることをそれとなく援用しつつ内視鏡検査の大変さを若干強調しながら話しを進め、大腸CTくらいだったらなんとかなるかと判断したので、「とりあえず大きな病変の有無だけはわかるから」と大腸CT検査をそれとなく勧めたところ、もともと内視鏡に不安感をもっていた娘さんが大腸CTに賛成した。ご本人も「痛くないのなら」とのことで結局大腸CTを実施することになった(ちなみに当院ではタギングという前処置を導入しており、大腸CTで残渣とポリープの区別もかなりよくつくようになりました。ちょっと宣伝)。
「なんだ、結局検査はするのか」という声が聞こえてきそうだが、検診要精査で紹介受診された方を(現時点では)さすがに「手ぶら」で帰すわけにもいかないのである(条理をつくしてご説明し、ご納得のうえ「手ぶら」で帰られるかたもたまにいます)。
今回は大腸CTになったが、検査に積極的な方では大腸内視鏡検査を希望されるかたもいる。その場合はリスクを説明の上同意書を取得して粛々と大腸内視鏡検査を進めることになる。当方が15年来取り組んでいる無送気挿入法による検査で幸いこれまでのところ大きなトラブルには遭遇していないが、今後もそう願うばかりである(超高齢者の検査自体避けたいのが本心ではありますが)。

 数日後大腸CTの結果が判明した(画像構築に時間がかかるのと、当院では放射線科医の読影を経ているのでやや時間を要します)。「右側結腸に小隆起の散在を認めるが、多くは残渣であり粗大な病変は認めない」という所見をご本人、娘さんにお話してひとまず一安心という結果になった。
市民検診要精査の場合は、その結果を指定の用紙に記載することになる。大腸CTを選択し大きな異常がなかった旨を記載する。ここまではいい。さらに今後の方針を記載する欄がある。ふつうに大腸内視鏡検査を実施し特に問題がなかった場合は、今後の方針には「次年度検診」の欄に丸をつけて提出する。
さてこの方の場合、来年も検診を受けて頂きますか?
もし「85歳に達したので本人の希望により今後の便潜血検査は受診しません」という項目があれば是非そこに丸をつけたいところではあるが。

 何歳まで検診を受けるか、また受けるメリットはあるかというのは受診者個人の人生観も絡むことなので一概に結論を出せない問題ではあるが、大規模なスタディの結果ある程度検診の効果が判明していることについては、そろそろ線引する時期に来ていると思うのであるが、皆様のお考えはいかがだろうか?

タグ:医療
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日記の効用 [雑記]

数年前に、仕事で関係しているある会の会報に投稿した文章です。
このブログ、すっかりご無沙汰でしたがある友人にこのブログに載せている文章を紹介したので、あまり放置するのもどうかと思って、久々に更新しました。

日記の効用
記憶力に自信がある方ではないが、それでも人間の記憶力とは大したものだと思う。
日記をつけ始めてもうすぐ10年になる。ブラインドタッチの練習にと始めたもので、キーボードで打っている。現在はシンプルにテキストファイルで打って、それをクラウド(Evernote)に上げている。こうしておくと手持ちのどのデバイスからも見ることができてしかも検索可能である。
たまに以前の日記を読み返してみると、その日が特別な日ではなくても日記に書かれた出来事、内容でその時の光景、感情がディテールまで含めてありありと思い出されることが多い。旅行など特別なイベントがあった時は、その内容が詳細に記載されていればいるほど、写真などでは残しきれない空気感も含めて鮮やかに光景が蘇ってくる。われわれの記憶の海は実は膨大なもので、何か手がかりさえあればそれを引き出すことができるのだと実感する。

 近年のリアルに思い出される光景と感情といえば、やはり5年前の東日本大震災だろう。5年経って記憶の風化が言われている。われわれも当事者の一員でありながら日々現実の忙しさに取り紛れて節目節目で振り返ってはみるものの、その時自分が何を見てどう考えていたかという記憶は次第におぼろげになってきている。
そんな時当時の日記を読み返してみる。そこには、信じられない光景を目の当たりにし、それまで想像もしなかった状況に追い込まれ、ギリギリの決断を迫られている自分がいる。あの時は少なからぬ同僚が福島を去った。自分は福島にとどまり妻子を避難させた同僚はもっと多かった。彼らの迅速な決断と行動には賞賛にも似た気持ちをもったが、それでも家族も含めて福島にとどまると決断するまでの過程が書かれている日記を読み返すと、その時の自分の考えの変遷をリアルに追体験できる。
 当時痛感したのは、それまで自分がいかに「どうでもいいもの」にとらわれていたかということだ。
「いままで、ライフハックだの自己啓発など、言ってみればちょっとヒトより効率的に人生を歩もうとする小細工的なものに関心があったが、震災以降全くそういう関心が消失している。圧倒的に巨大な力の前ではそれらはホント、何ほどのモノではないからだ。
そういう事態に遭遇することはないだろうと無意識に思っていたのかもしれないが、実はそういうことが起こりえるのが人生なのだと最近は思う。その時本当に守りたい、大事にしたいと思えることが、自分の人生にとって死活的に重要なことであって、それ以外は実はどうでもいいことなのだ。」
「よく大病をした人や九死に一生を得た人などが、がらっと人生観が変わるというが、そういう人たちは人生の実存に触れたのではないか。いつもはオブラートに包まれている人生の、隠された実相のザラッとした手触り。今回の震災および現在進行形の原発事故をとおして、たしかにこの手触りを感じたような気がした。そしてその感覚はまだ生々しく残っている。
内田樹によれば村上春樹作品のテーマのひとつは、理不尽で意味のない暴力にさらされる個人の生き方だが、今回の震災でも、圧倒的な力でもって蹂躙される個人の運命の儚さに慄然とした。家を建てて、子どもを育てて、海外旅行ぐらいは行こう、なんとなく自分も平均寿命ぐらいまではいくんじゃないかと思いながら、小さな夢をおって過ごす毎日。そういう日々から、突然、震災とりわけここでは日々の放射能の恐怖にさらされる毎日に変わってしまった。」
震災原発事故から少し経った頃はこんなことを考えて書いていた。読み返すとその時の自分の感情と周囲の空気感を鮮明に思い出す。状況やそれを取り巻く空気感というものは言葉では完全には伝えきれないものだが、自分の言葉でなければ伝わらない空気感もあるだろう。5年経ってまた「どうでもいいもの」にとらわれ始めてきた現在の自分に対する、過去の自分からの箴言のようなものだ。

 最後にもう一つ当時出会って心打たれた言葉を紹介したい。
「Do not dwell in the past,
Do not dream of the future,
Concentrate the mind on the present moment.
(過去にとらわれるな、未来を夢見るな、いまこの瞬間に意識を集中しろ)」
震災原発事故直後の不安定な時期に出会った言葉だ。未来への漠然とした不安にとらわれて目の前のことに集中できない時、いまこの瞬間に意識を集中していまこの瞬間を十全に生きることを勧める言葉だ。当時の不安定な状況の時自分を支えてくれたし、それ以降も座右の銘になっている。
実はこの言葉、詳しい出典こそ調べきれていないが英語圏ではブッダの言葉として知られている。2500年の年月をくぐり抜けてきた言葉のもつちからはやはり伊達ではない。

 日記をつける効用について、東日本大震災を例にとり過去の光景、感情、思考をリアルに思い起こさせるという観点から書いてみた。最近のIT技術(特にクラウド)の進歩により、日記を書き続けそれを活用するハードルはかなり低くなっている。これらの技術を活用して日記を書くことをお勧めしたい。
タグ:雑文 日記
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