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震災以降(3) 居着くこと [雑記]

甲野善紀さんや内田樹さんによると、武術において「居着くこと」はもっとも避けなければならないことらしい。真剣勝負においてからだや心が何かにこだわりそこに居着くと、とたんに動きが鈍くなり、それが文字通り命取りになるようだ。武術では、いかに居着くことを避けるか、すなわち執着心を捨て去るかが肝要であるようだ。それは勝負に勝つという執着も含めて。

真剣勝負の命のやりとりに限らず、今回のような原発災害も含む震災でも居着きの少ない人の方が生き延びるチャンスが多かったのではないか。
この場合の「居着き」とは、普段ならポジティブに考えられているようなこだわり、自分の財産、価値観なども含めてのことだ。
どうしても福島市に住んでいると原発のことが主になるが、何の「居着き」もない人のほうが一目散に原発からひたすら遠くに離れているように思える。どうしても、自分の職場とか、子供の学校のこと、持っている家や財産などなどに執着する、すなわち居着いてしまうと、そうはいかない。結果として、こういう「居着き」の少ない個体の方が生き延びるチャンスは多いのだろう。

日本で活躍する数学者兼タレントのピーター・フランクルさんの父親は、ナチスによるジェノサイトを生き延びたユダヤ人の皮膚科医だったそうだ。その父親がピーターに、「自分の頭のなかのモノ以外なにも持って逃げることはできない」と常々語って聞かせていたそうだ。
本当にだいじなモノ、それはいわゆる「物」ではなく、自分と不可分でありポータブルなモノ、コトであり、それらさえあれば何物にもとらわれることなく、いつでもどこでも前向きに生きていける。それが「居着き」の少ない人生のおくり方なのだろう。

震災以前の我々の生活の中に溢れていたさまざまなモノなり価値観、今後はそれらに過度に居着かないように生きていく。ほんとうに大事なモノ・コトは、ポータブルな形で自分のなかに昇華しておく。
こういうコトに気付いたことが、今回の震災で得られた数少ない教訓のひとつだ。

震災以降(2) [雑記]

前回のエントリで、世界が変わって見えてきたと書いたがそれについて少し考えてみた。
よく大病をした人や九死に一生を得た人などが、がらっと人生観が変わるというが、そういう人たちは人生の実存に触れたのではないか。いつもはオブラートに包まれている人生の、隠された実相のザラッとした手触り。今回の震災および現在進行形の原発事故をとおして、たしかにこの手触りを感じたような気がした。そしてその感覚はまだ生々しく残っている。
内田樹によれば村上春樹作品のテーマのひとつは、理不尽で意味のない暴力にさらされる個人の生き方だが、今回の震災でも、圧倒的な力でもって蹂躙される個人の運命の儚さに慄然とした。家を建てて、子供を育てて、夏休みぐらいは旅行に行こう、なんとなく自分も平均寿命ぐらいまでは生きるんじゃないかと思いながら、小さな夢をおって過ごす毎日。そういう日々から、突然、震災とりわけここ福島では日々の放射能の恐怖にさらされる毎日に変わってしまった。
「100ミリシーベルトまでは安全です」とオウムのように繰り返す某アドバイザー学者から、「もうすぐ○号機が爆発する。すぐ逃げろ」と煽る安全地帯にいる人まで、さまざまな情報ともいえない不確かな言葉の海の中から、自分の信じられる「言葉」を探し出して、とりあえず自分の家族を守ろうと必死になる毎日。今、福島の多くの子供のいる家庭ではこういう毎日を否応もなく過ごしている(全く気にしていないように見える人々もいるが、おそらくそうした情報を意図的に遮断しているのではないか)。
野尻さんという著名な物理学者のブログのタイトルはこうだ。
「油断するなここは戦場だ」。今まさにその気分!

※この項もうすこし続きます。いまの気持ちを書き残すために。

震災以降 [雑記]

3月11日以降の、震災そして原発事故からなんとなく世界が変わって見える。
下のエントリに書いた山岳部のOB会も遠い過去の事のように思える。また、最近でもTVでスポーツ中継やら、(滅多に見ないが)ドラマやバラエティなど、ちらっと見ただけでも、まるで別の世界のことのように違和感を覚える。

原発から立ち上る煙をTVで見た時、圧倒的に巨大な力が自分と周囲を踏みつぶしていくような恐怖感に襲われた。そして、絶望的な無力感。あの時は、文字通り「世界の終わりが始まった」と感じた。今現在、そこまで原発事故は悪化はしていないが、ただ静止状態をなんとか保っているだけで、安定しているとは到底言い難い状況が続いている。
いままで、ライフハックだの自己啓発など、言ってみればちょっとヒトより効率的に人生を歩もうとする小細工的なテクニックに関心があったのだが、震災以降全くそういう関心が消失している。圧倒的に巨大な力の前ではそれらはホント、何ほどのモノではないからだ。
そういう事態に遭遇することはないだろうと無意識に思っていたのかもしれないが、実はそういうことが起こりえるのが人生なのだと最近は思う。その時本当に守りたい、大事にしたいと思えることが、自分の人生にとって死活的に重要なことであって、それ以外は実はどうでもいいことなのだ。

TVでは震災前と同じ芸人が同じようなお笑いでバラエティ番組をやっている。震災前はくだらないとは思ってもそう目くじらは立てなかったが、今では世界が変わった事が理解できないかわいそうな連中としか思えなくなった。
スポーツも、確かにすごい技術の応酬なのだろうが、たとえば野球など所詮は人間が決めたルールの中だけでのことで、自然の猛威と科学技術の暴走のなれの果てを目撃してしまった今ではあまり心に響かない。ただし、甲野善紀さんのような武術家は別だ。甲野さんのツイッターでのつぶやきは深く心に響く。彼も原発事故を憂慮しているが、そういう限界状況になった時にどう対応すべきか、これが武術の探求に通じるという。

ツイッターの話が出たが、現時点では信頼できる人(これを見つけるのにもリテラシーが必要だが)の、つぶやきをfollowすることで大分精神的な安定が得られている。
詳しくはまたそのうちということで。
とりあえず、今の気持ちを、不完全ながら書いて、ブログまた再開しました。

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