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『偏屈者たちのニーチェ』 [読書日記]

おととい夏休みの旅行(沖縄家族旅行)から帰ってきて、まだ残りの夏休み中。
何とか時間を作って本屋にいって見つけたのが、河出書房新社の『ニーチェ入門 悦ばしき哲学』という本。9人の専門家がニーチェについて書いている本だ。
この中で出色なのは田島正樹先生の『偏屈者たちのニーチェ』の論考。

「ニーチェの教説を、『永劫回帰の説』であるとか『超人の思想』であるとか、そういう形でくくってしまって、それの『本当の意味』を問うこともあまり意味のないこと」として、「彼(ニーチェ)の主張のどこが今なお有意義であるとか、あるいは哲学史上にどういうふうに位置づけられるかといったことを議論してもいいですが、それもどちらかと言えば非本質的なこと」とまで言い切っている。そういった事を議論している本が大部分なのだけれどね。
その上で、ニーチェを読むと言うことは、「『お前はどういう人間なのか』という問いを、テクストからの挑発としてうけとること」と言っている。

田島先生は、現代の日本社会では「その場の空気を読んで期待されることをしゃべる人々が『いい人』であり、そうすることが、あたかも唯一のモラルであるかのように」されていると指摘し、それを『幇間(たいこもち)の倫理』と呼んでいる。このような意味での順応主義の対極にあるのがニーチェで、ニーチェの思想はこのような社会で息苦しさを感じている「高貴な偏屈者」たちを励ますものだとしている。
ちょっと長いが、引用してみよう。多分励まされるヒトも多いんじゃないかな?

「私はよく、『高貴な靴屋』という例を出すのです。高貴な靴屋とは、親方から厳しくしつけられたために、どんな場合にもつい上質の靴を造ってしまうような人です。つまり、儲からないとわかっている場合でも、粗悪な靴を造ることができないという偏屈者です。自分がどんな調教を受け、どんな風な試練にさらされてきたかは、もちろん多くの偶然の産物です。ですから、そのような厳しい掟は自分だけのものであり、甘やかされて物わかりのよい俗衆にまで普遍化できる道徳ではありません。彼らには彼らの幸福があるだろうし、それを否定する必要もまったくありませんが、高貴な靴屋にはそれとは違った運命があるのです。
皆に合わせて物わかりよく生きる順応主義に少しもおかされないで、自分自身が偶然あずかった性格をつい貫いてしまう偏屈者、ニーチェはそういう人に勇気をあたえるのではないでしょうか。そういう偏屈さがニーチェの言う『高貴性』なのです。こういう人は、非常に孤立するかもしれません。でも、偏屈者で状況に合わせられず、皆から嫌われており、幇間だけがはびこる社会にいらだちを感じつつも、ともすれば『私はだめだ』と思ってしまう人にこそ、ニーチェは訴えているのだし、勇気と自己肯定を与えているのです。」


田島先生のブログ(ララビアータで検索すればすぐでます)も、心に沁みる記事が多く是非訪れてみることをお勧めします。


ニーチェ入門---悦ばしき哲学 (KAWADE道の手帖)

ニーチェ入門---悦ばしき哲学 (KAWADE道の手帖)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2010/06/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



タグ:読書
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